童謡「たなばたさま」の歌詞が秀逸すぎてレコ大作詞賞もん

 

 

 

こんばんは。

 

七夕の夜なので、

童謡「たなばたさま」の歌詞がいかに秀逸かを僭越ながら説明します。

 

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七夕様

 


ちなみに筆者は音大卒でもなければ、

ろくに音楽に詳しいわけでもありません。

 

たまに関ジャムを観る程度です。

 

 

執筆当初はTBS系列『プレバト!!』(毎日放送制作)の人気コーナー「俳句の才能査定」のように、

歌詞に対してコチャコチャとコメントを入れながら添削していこうと計画していました。

 

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「ブレバト!!」で辛口添削に定評がある夏井先生

 

 

しかし、全くもって音楽の造詣が深くない身でありながら、

偉そうに的外れなことを書いてしまうと

アレ(※)なので、

中立的なスタンスを取ることにしました。

 

アレ:炎上に対するリスクヘッジ

 

 

そもそも童謡と舐めてかかっていたら、

けっこう表現が技巧的だったので、

口出しできる点もありませんでした。

 

 

 

さて、「たなばたさま」歌詞の意味は下記のサイトで丁寧に説明されているため、

こちらをご参照ください。

 

www.worldfolksong.com

 

 

 

歌詞をこちらでも紹介しておきましょう。

 

【一番】

笹の葉さらさら

軒端(のきば)に揺れる

お星さまきらきら

きんぎんすなご

 

【二番】

五色(ごしき)の短冊

わたしが書いた

お星さまきらきら

空からみてる

 

 

一番Aメロ

笹の葉さらさら 軒端に揺れる

 

一番Aメロは情景描写です。

 

歌い出しがア段の音から始まっているので、

一瞬「水野良樹いきものがかり)作詞かしら?」と思いました。

 

note.com

 

 

 

そこで作詞者について調べたところ、

権藤はな代さんという女性で、この曲が代表作のようです。

 

ストリートミュージシャンとしての経歴は確認できなかったため、

おそらく偶々でしょう。

 

 

もしも歌い出しを

「軒端でさらさら 笹の葉揺れる」

にしていたら、

 

「軒端でさらさら」

何の音だろう?

 

 

 「笹の葉揺れる」

→“笹の葉かあ”

 

と、聴き手の想像力を高めることができたような気もします。

 

しかし、先で述べたように、歌い出しをア段にすることで道ゆく通行人の足を止めることができる名曲に仕上がっています。

 

また、「笹の葉」から歌を始めることで、

一見さんにも七夕の歌だネと安心して聴いてもらうことができるでしょう。

 

 

 

一番サビ

お星さまきらきら 金銀砂子(すなご)

 

おったまげました。

 

見るからに子供ウケを狙っていると油断させておきながら、玄人を唸らせるだけの仕掛けが仕込まれています。

 

 

とはいえ私は残念ながら玄人ではないゆえ、

そもそも先程の節が『Aメロ』で、

本節が『サビ』で合っているのかすらも分かりませんが、

素晴らしいことはわかります。

 

その理由は「距離感の使い分け」という技が繰り出されている点にあります。

 

歌詞の中で情景を描く際、

0m(心の中)1m10m100m(手の届かない距離)を散りばめるように書き分けるといい】

と提唱されています。

(と偉そうに書いているが、関ジャムの入れ知恵。いしわたり淳治氏が解説されていた)

 

例として挙げられていた、

槇原敬之「遠く遠く」の歌詞は、

 

Bメロ「同窓会の案内状」

サビ 「遠く遠く」

 

両者が0m100mを結びつけており、

目線が広がっていくような歌詞になっている点が美しいとのことです。

 

たしかに。

 

 

この目線に従って、「七夕様」の一番を参照すると、

Aメロの「軒端」すぐ近くの情景として描写されている一方で、

サビの「お星さま」では遠く遠く、宇宙の情景を描写しています。

 

なんという目線の広がりようでしょう。

 

その拡大率、低く見積もっても槇原氏のおよそ77万倍はあるでしょう。

 

 

 

二番Aメロ

五色の短冊 わたしが書いた

 

 

きんぎんすなご・・・

 

ご・・・・

 

ご・・・・・

 

 

ごしきのたんざく!!!

 

 

 

作詞者の権藤さんも語っているように、

一番の終わりきんぎんすなごの最後の音である「ご」から、

二番の歌い出し「五色の〜」が始まっている点は子供でも歌いやすくすることを目的とした工夫のようです。

 

さらに両者を比較すると、

どちらもが関わる描写であることに気づきました。

権藤さん、仕掛け上手ですよね。

 

一番の歌い終わりにて、宇宙を描写するにあたり、「金銀砂子」と色を持ち出したのがここにも繋がっていたとは。

 

本当に無駄な詩がないです。

 

 

こうなってくると、限られた字数・リズムの中で、「短冊」に対して、

敢えて「わたしが書いた」と補足したことにも明確な意図がありそうです。

 

 

 

二番サビ

お星さまきらきら 空からみてる

 

やられました!!

 

 

うーわ、やられたわ

 

またも目線を広げられてしまいました。

 

一番で

すぐ手元の軒端に目を向けていたら宇宙

 

二番では

すぐ手元の短冊に目を向けていたら宇宙

 

一番、二番とサビ頭を「お星さまきらきら」で統一することで、

鮮やかにIPPONを取られました。

 

 

あくまでもこの歌の主役は、

きらきら輝く「お星さま」

 

そして「お星さま」「空からみてる」

 

 

一番サビでは「金銀砂子」

→地球から見える幾多の「お星さま」の色に関する情報しか与えられていませんでした。

歌詞の上での主語はあくまで観測者である我々です。

 

 

ところが、二番サビで

(お星さまが)空から見てる」と動詞を与えることで、

歌の最終盤において「お星さま」主語能動的立場に代わったわけです。

 

 

当然ながら、この世にある数多の歌はそのほぼ全てにおいて、作詞する立場である人間を主語として作られています。

 

 

ここで思い返してみると、二番Aメロで

「五色の短冊」「わたしが書いた」ことをわざわざ歌詞に織り込んでいたのは、

最後のどんでん返しに向けて

“この歌、そして七夕の主役だって当然我々人間だと思うよな?”

と、聴き手に対して刷り込んでいたのではないでしょうか。

 

しかしながら、それは権藤氏によって覆されました。

 

七夕の主役は「お星さま」でした。

 

 

そして、この主張は初めから

歌のタイトルに暗示されていたのです。

 

【たなばた「さま」】・・・

 

 

この歌は、人間が365日無意識のうちに展開しているエゴイズムに対して警鐘を鳴らすものだったのでは。